現像と現実

なんだかさわさわする朝。

秋の朝ってどうしたって、
セピア色になってきたいつかの秋の朝の日を思い出す。

そりゃあもちろん、いい日もあったし悪い日もあった。

でもどれもが、平等に、とはいえないけど、それなりに、似たようなつぶつぶになって、わたしの後ろに置かれていって。

ヘンゼルとグレーテルがパンを道に並べたみたいに、ちょん、ちょん、とならんでいる。

ほんとはそれは食べられてしまってもよくって、それならその時だなって、そうおもう。

なんでも鮮明で新鮮なほうがよさそうなもんだけど、

褪せてくるからひとにやさしいこともあって

色のあるときにはおもえなかったことを、おもえたりもする。

多少美化されたりもするだろうけど、色付きで立体のときのほうが、実は不明瞭なこともある。

秋の朝はいろいろなかおりがして、あの頃や、あの頃に、連れ帰る。

毎日やってくるあの頃やあの頃は、この頃、もう十代のときの記憶になってきて

まだまだ23歳だけれど、それなりに積み重ねてきたんだなとおもう。

十代のころなんて、もうじつはブログに記録をはじめていたから

この頃思い出すあの頃というのは、
一度文字にしたことのある記憶、
になってきたことがなんだかおもしろい。

わりとはっきりおぼえているあのことばたちが、今、のにおいや肌触りによってまた立ち起こる。

文字を書きはじめたあの頃から、それこそみちしるべを置くように、ひとつずつわたしから切り離していくわたしがうまれた。

だからいつだって、その瞬間を遠巻きに見ているわたしが、はっきりと存在した。

そういう遠巻きのわたしが息をしだすようなかおりをかぐと、

なんだかやっとその子を、
遠巻きからその地点へ返してあげられるような気がする。

本当はその瞬間に対する客観なんて、ありえない。

それでも、客観視することで、むりにでもひっぺがしておかなければ、ならないことがある。

こうしていま、セピア色になって、ひっぺがしたあの頃をひとつに、真っ平らにできることが

この頃、すこし、うれしい。