もしゃもしゃ







すきな挿絵をむさぼるように模写していた。

模写の元:『ヨーコさんの“言葉”』佐野洋子・文 北村裕花・絵 

わたしのすきな絵というのはどうも

その線が実態の輪郭を描いておらず

うつしたいものの気配とか、まといとか

そういったもののかたちを描いている。

そこに描かれている瞬間の
0コンマ何秒前から、あとまで

含まれたような線を描いている。

むかしから、ひとの顔を描くのは大好きで

だけど、会ってすぐのひとや、会ったことのないひとは

いくらたくさんの詳細な写真を見ても描くことができなかった。

それはきっと表情の蓄積でひとの顔をとらえているからなのだけど

そういう感覚でも、わたしのすきな絵は描けなくて

気配やまとい、瞬間の前後をうつした絵は描けなくて

いったいわたしのすきな彼らはどうやって描いているんだろう

とおもって模写をしてみた。

やってみて、そのようなかたちにはできた。

けれど

模写と、真似て自分のオリジナルの絵を描くことを
交互に繰り返してみると

まったく反映していないというか
その線が描ける原理が頭でも感覚的にもわかっていないから

やっぱり全然、描きたい絵は描けなかった。




『奇想の前提』の稽古中、
自転車にはじめて乗れたときの感覚をふとおもいだした。

自転車って頭で考えたらどうして乗れるのかまったくわからない。

あんなに細いタイヤでまっすぐ立ってすすめるなんて。

だけどからだがその一筋のラインを見つけた瞬間に
なんなく乗れるようになる。

芝居をしてても、頭でいくら考えてもできないことが
ここだ、というラインを見つけた瞬間

ものすごくスムースに、
イメージが体を通って外に出て行く感覚があって

ああ、どんなものにもこの感覚は通じるかもしれないということを考えていた。




今朝、偶然に見つけた14歳の音楽家・大山琉杏さんの歌が凄まじくて

それはそれはすばらしくて

久々に人の歌を聴いて泣いた。

その歌は、もう歌っているのではなくて
歌に歌わされているようで

彼女の意思や思考をはるか超えてはたらく
「歌に歌わされている」という力をすごく感じた。

彼女が9歳位のときの動画を見てみると
9歳とは思えない、これまたすごい歌唱力なのだけど

14歳の彼女にあるこの「歌に歌わされている」という印象はまだなくて
むしろ9歳のときの方がずっと「歌っている」という印象を受けた。

これはすごく不思議で、
「歌に歌わされている」彼女の方がずっと自由で豊かで

なによりとても自然に見えた。

彼女が歌を歌っている状態が、とても必然的に見えた。

とてもスムースに
歌とその他のものを媒介しているような
こんなに豊かなのに、彼女はからっぽの筒のように見えた。

とても不思議なことだなと思った。

同時に面白いのは、こんなにも天才とかんじられるひとにも
きちんと「歌っている」時間があったということで
その時間を猛スピードで経て今に至っているということも
すごく興味深いと思った。

きちんと鍛錬でたどりつける場所なのだと思った。

歌とその他を媒介する筒のように。
絵とその他を媒介する筒のように。
文字とその他を媒介する筒のように。

歌に歌わされ
絵に描かされ
文字に書かされて…いる人の
姿が、作品が、見たいのだと思った。

それはとても不思議だけれど
なにより自然で必然的で、うつくしい姿だと思った。



このところ感じていたことにひとまずの結論が見えた。

家であれやこれやしながら思考を進める時間は
思えば2年ぶりくらいかもしれなくて久々の感覚。

ちょっとそういうターンのような気がするので
もうちょっとやってみる。

それはそうと、またさっきパンを焼いてしまった

しおちぎりパン。おいしすぎておどろく。