そこにきざむ

またも恩師の彫刻展をみにいった。

あんまりおもしろくて、先生に質問がやまない。

質問が湧いてくる状態ってすごくいいなと思い、記録にとどめたくなる。

わたしの中に蓄えがあって、みたものを受け止めるだけの何かがあるからなのか

わたしがわからない、ということを、わかっているからなのか

目に映るものをまっすぐに受け止められる状態だからなのか

なににせよ、言語がある状態というのは、よい。

自分のなかにあることを、そとに言語化できることというのは
自分にも、他者にも、よいようにおもう。

言語化できないからくるしい。

他者にいきどおる。

いまはとてもやわらかく心地よいなとおもう。


いつもは国内の作家さんの展示なのだけど

今回のは、世界の作家さんの。

いつもだって、人それぞれ多様で面白いとおもっていたのに

世界となると豊かさがすごい。

国内に見る彩りとかなりちがって
風土と文化、言語のちがいを感じる。

かおりが、ちがう。

そのなかでも日本人の先生の作品は
いつもどおり、やさしく木肌に透ける体温といのちのかたちを放っていて

先生だなあ、とおもった。

この前インターネットで、
インターナショナルスクールに通う日本人のお子さんが

日本人の教室とインターナショナルスクール
両方で描いた自画像を目にしたのだけれど

おなじお子さんが描いた絵なのに
色彩も、絵のタッチもまったくちがっていておどろいた。

よく帰国子女の友人が
英語を話すときは人格が変わるからびっくりすると思うよ

というのを聞くけれど、きっとこういうことなんだなと思った。

その話を先生にしたら

言語というのは、発する人のからだそのものの状態を変えるのだよね

というようなことを言っていて、なるほどなあと思った。

その言語を発するのに必要な、からだの状態というのがたしかにあって

それが人格をも変えるんだろうな。

芝居をしていて、からだの状態から変えて見ることがよくあるので、一層納得した。

それにしても、言語の影響は興味深い。

別の言語を知ることができたら、
別の世界の人と話ができるだけじゃなく
別の自分とも出会えるのか。

そうそう

何年も見ているのに、当たり前すぎて聞けなかった

彫刻の定義って何ですか?という質問ができた。

そこに在る、ということ、だと言っていた。

ものすごく、いいとおもった。

だからすきなんだ、と、おもった。