壊れて消えた

散歩をしていてふいに

「等身大の老後」という言葉が浮かんで

なんだかピンときたのか、気に入ったので、すぐにぽっけにしまった。

しまってから、出して、
等身大の老後ってなんだろうと

駅のホームでかんがえた。

等身大の高校生、とか

等身大のアイドル、とか

なんとなくイメージできる。

等身大の老後、って、イメージしたこと、あるだろか。

等身大の老後

成長してるのに老いていくし
生きていくのに死に向かう

存在自体が矛盾だから

すべてが矛盾にならない、感じがした。

そんなことを考えながらノーヒントでむかった観劇

TOKYOハンバーグ
『しゃぼん玉の欠片を眺めて』

期せずして、ひとりのおじいさんと、贔屓にしているお掃除業者、家族、の話だった。

そこにあるのは具現化された「等身大の老後」で

なんだろう、
思い出してもぐしゃぐしゃに心がつぶれそうになる。

いや、物語はとてもやさしくてやさしくて

だけどこう、ぐしゃぐしゃになるのは

わたしと、老後、という単純な時間の隙間

その隙間が仮にだけれど埋まる感覚が

まるで空き缶が潰れるみたいに
ぐしゃぐしゃ、と音を立てる。

おもえば「等身大の老後」ということの中身については、高校時代からよく考えていた。

16歳から見た80歳、とかではなく

80歳の肉体の中にいる、
80歳として認識される世間の中にいる、
80歳のこと。

脚本に書こうと幾度となく思っていた。

わたしにとって、とても興味深いことのようで

たぶんそれは
祖父母とおなじ、横並びに立つことが
いちばん愛の伝わる形だと昔から信じ込んできたからだ。

それがよいこたえなのか
真偽はわからないけれど

舞台の上に立つおじいさんは

どうあれとても、とてもきれいで

すべての矛盾を全身に包括して
そこに現存していた。

ひとつ、ひとつの、筋がうごくたび
生きてきたこと、生きていることを放ち

その、在る、という説得力に息を飲んだ。

老いる、という語感は、後退のように感じてしまうけれど

その、在る、様、は

生きてきた日々の中で、削がれ、刻まれた、彫刻のようで

老いる、ということは
そうして作品の完成に向かうことなのだと、感じさせてくれた。

わたしも、生きていきたい、と思わせてくれた。

まちがいなく、そのおじいさんを演じた三田村周三さんの姿があってこそ感じられたことなのであるけれど

そんなふうにおもえる「生」があって、よかった、ありがたい、と、心からおもった。

また、そこにいるひとりひとりの在る様も、とても「等身大」であって

善も悪も、すいもあまいも、
すべて孕んで、それでも生きていていた。

正直に生きていいのだ、とおもえた。

これもまた、ありがたかった。

老い、と、家族。

愛、と、責任。

無償だからこそ、受けられない愛があること。

自分の人生を生きること

あなたの人生を邪魔したくないこと

ひとりひとりにおもいがあり

どうにも全員を抱きしめたくなった。

きっとそれも

物語の登場人物でないわたしだから、できる愛なのだと思う。

生きてるって嘘みたいだよね。ほんと。

公演が終わったら消えてしまう物語や

風が吹いたら消えてしまうしゃぼん玉と

さして変わらないね。